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朝起きたら、風邪をひいていた。
雨に打たれたわけでも、誰かに移されたわけでもなく、ベッドが窓に近すぎて冷気に触れたまま一晩過ごしたからだ。昨晩は確かに冷え込んだ。
今日は講義がある日なのになぁ。
とりあえず自転車に乗って学校へ行く。坂道を登ってきたから体は温まっているはずなのに寒い。これは暖房よりも日光が恋しい、と思い大きな窓のある自習室へ行く。
あぁ、先生ごめんなさいと思いつつ、読みかけの本を開く。
正木香子さんの『文字と楽園』。精興社書体について、精興社書体で綴られている、なんというかメタ的な本だ。精興社書体は一文から一文が、音楽記号のスラーでつながっているように流線形で目に入ってくる。すいすい泳ぐように読み終えるとお昼どき。
今日は講義をあきらめて古本屋へ行こうと思い立つ。
読み終えた『文字と楽園』には精興社書体で綴られたたくさんの名作が登場する。ぼくはその中の『戸惑う窓』がどうしても読みたくなった。自転車を押して光風舎へ。
光風舎は古本屋だ。気まぐれ営業だと思っていたけど、曜日と時間は守って営業しているらしい。今日はさっきあいたばかりみたいだ。
中に入ると、店主のおじさんと、店主よりは若い男の人が何やら早口で話していた。聞き耳は立てないようにする。
本の背中を眺めていると、中野翠という名前が目に付く。きれいな名前だ。どこかで見た。さっき見た。まとまった著作群の中から『千円贅沢』を手に取る。これも紹介されていた本だ。正木さんはこの本が千円で買えないことにすこしがっかりしていたけど、これは古本。値札には700円とある。おじさんに渡したら高すぎるから500円でいいよって。やったぁ。
本の中から本が出てきたから、ぼくも本からでてきたんじゃないかって期待する。期待してもいい天気だったから、スパゲッティを食べに行った。駅前の裏路地にあって、小さくて汚いお店なんだけどとにかくおいしい「アルデンテ」。
自分だけが知っているような心地でいたけど、いざお店に入るとほぼ満席。
あ、儲かっているんだ。安心感と寂寥感も一緒に席についてアイドルを頼む。アイドルっていうのはナポリタンをこの店風にアレンジしてボリュームアップしたものだ。
アツアツを口にいれていく。食べながら思う。
今日は何一つ目標を成し遂げていない。成し遂げていないけど、今日もいい一日だった。明日はちゃんと講義に出ようと思う。
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行くべきところに行かなくなってから一か月たった
ぼくは日本史の勉強をしたり、本を読んだり、ぼんやりして日々過ごしている
掃除や洗濯、日々のルーティンは嫌いじゃない
洗濯ものを干した後の部屋で勉強するのは、いい心地がするからだ
ぼくは元より褒められたり、人前に出ることが得意じゃなかった
それよりも、頭を下げて日々黙々と生きる人生がすきだった
誰に誇るわけでもない、でもひっそり細々と続いていく暮らし
次の誰かのためにトイレットペーパーの端を折るとか
隣の人の靴も整えておくとか
机の上の整頓とか
自分にしかわからないちょっと、をためていきたい
こんなことを忘れていて、思い出したんだ
どうかこれからも人のための小さな日々がつづきますように